鴻池新田会所の歴史

鴻池新田会所の歴史
Konoike Shinden Kaisho’ s History

旧大和川の付替えと新田開発

 鴻池新田会所が立地する河内平野には、およそ6,000年前に河内湾と呼ばれる内海が広がっており、人が生活できる陸域は少なかった。その後土砂が堆積していくことで陸化が進み、河内湾は河内湖となり、旧大和川などの河川の流れる平野へと変化していくなかで、旧大和川の分流によって生まれた自然堤防上に集落が営まれた。
 江戸時代、河内平野の中央部には旧大和川とその支流が流れ込む新開池、深野池という2つの大きな池があった。旧大和川流域は排水の悪い低湿地であり、度々の水害に見舞われたため、周辺の住民は旧大和川の付替えを幕府に嘆願していた。明暦元年(1655) には、新開池の出口の川道北側に、徳庵から今福に至る徳庵井路(現、寝屋川)が開削され、その後も河村瑞賢による治水工事などが行われたが、旧大和川流域の水害は続いた。

 元禄16年(1703)、河内郡今米村の中甚兵衛らの陳情が受け入れられ、江戸幕府が川の流路を志紀郡柏原村から西へ曲げ、和泉国堺浦に注ぐ新河道を造ることを決定した。付替え工事は、翌宝永元年(1704)2月13日に着工し、10月13日に完工した。この付替え工事によって、新しい大和川の誕生とともに、旧大和川の川底や河川敷、池床などが陸化し、町人請負による新田開発が行われた。

河内地方のおもな新田

出典:史跡鴻池新田会所跡保存活用計画)

鴻池新田の開発

 鴻池新田の開発権は、宝永元年(1704)12月に、大坂京橋の土木請負商人 大和屋六兵衛・河内讃良郡中垣内村庄屋 長兵衛の名義のもと、80町歩を大坂商人 山中庄兵衛・泉屋吉左衛門・天川屋長右衛門・石川屋次郎兵衛・加賀屋虎之助の5人で、30町歩を鴻池屋又右衛門が、20町歩等を鴻池屋小右衛門が落札した。 
 宝永2年(1705)に三代目鴻池善右衛門宗利がそれらすべてを譲り受け、4月には地鎮祭を行い開発に着手した。河内郡玉櫛村 山中庄兵衛の世話により、
近村の庄屋達の協力のもと開発工事が行われ、宝永4年(1707)6月におおよそ完工した。
 新開地の大半を開発した鴻池新田の開発面積は、大縄町歩178町7反7畝22歩(約170ha)におよび、このうち租税対象となる田畑敷地は120町1反6歩で、当時50数ヶ所開発された新田の中で最も大きなものであった。
 開発費用は、権利買収に19,733両あまり、耕地造成や会所等の建設に30,550両ほどであった。
 新田開発完工後、寝屋川沿いに121戸、757人が移住してきた。

鴻池新田の範囲

(出典:史跡鴻池新田会所跡保存活用計画)

 宝永5年(1708)には検地が行われて、その後水帳が下付されるとともに、それまでの「新開新田」から「鴻池新田」へと改称された。当初の石高は870石5斗3升8合、反別120町1反6歩であったが、7年後の享保4年(1719)の再検地では、反別38町8反6畝14歩、高281石8斗8升合が増えて、租税対象地は158町8反8畝歩となっている。その後、享保10年(1725)には橋本新田(8反2畝2歩)、三嶋新田の一部(33町8反8畝8歩)を買い取り、享保16年(1731)には中新田西寺嶋(9町6反3畝8歩)、安永6年(1777)には中新田東寺嶋(4町5反1畝)を買収し、鴻池新田の範囲は拡大していった。
 新田内の田畑の割合は3対7で畑の方が多く、畑はすべて商品作物である綿作であった。

鴻池新田会所の整備と役割

 鴻池新田の開発にあたり、当初は新田地内の西側、徳庵に近いところに開発工事用の会所が設けられていた。この会所の建設は、宝永2年(1705)4月に着手され、7月に上棟された。現在地にある会所(鴻池新田会所)は、鴻池新田を経営・管理するための事務所として、新田開発とともに建設が進められ、宝永3年(1706)5月には釿初が行われ、宝永4年(1707)6月に新田開発のおおよその完工とともに完成した。
 鴻池新田の経営は、幕府直轄領だったため、他の村方のように庄屋・年寄・百姓代の三役は置かず、奉行による直接支配を受けることになり、支配人が新田の管理を行った。支配人は、鴻池家の手代の中から1、2名選ばれ、会所敷地内西側に設けられた役宅に居住した。
 鴻池新田会所では、新田内の小作料を取り立てて、鴻池家がまとめて年貢として幕府へ納めたほか、新田内の水路や道路の維持補修、抱百姓の家屋修理、宗門改帳の整理、幕府からの命令等を新田内の村中に伝える役割を担った。また、新田内での事件や揉め事があれば本屋北側に設けられた白洲で裁判が行われ、鴻池新田会所は新田の管理だけでなく、司法や行政の役割も担った。
 開発当時から鴻池新田内には井路(水路)が巡らされ、人々はこの井路を使って物資の輸送を行っていた。鴻池新田会所の周囲には周濠を設け、会所に集められた物資は、裏長屋門の北にある船着場から寝屋川へ出て、大坂堂島へと送られていった。

鴻池家の発展

 鴻池善右衛門家は、江戸時代、東の三井・西の鴻池と並び称されるほどの豪商であった。その先祖は戦国時代に出雲・隠岐・伯耆の三国を領した尼子氏の家臣である山中鹿之助幸盛だと言われている。鴻池家は鹿之助の長男であった山中新六幸元を始祖として、摂津国伊丹の鴻池村(現・伊丹市)で商人となり、酒造業を始めた。屋号は地名をとって「鴻池屋」とした。造られた清酒は陸路によって江戸へと送られ、多くの資本を蓄えた。元和年間には、大坂内久宝寺町へと進出し、酒造業の拡大とともに海運業を興し、さらに成長を続けた。幸元の八男が初代善右衛門となり、明暦2年(1656)には両替商を開始した。
 二代喜右衛門之宗(※五代目まで実質的な主人は喜右衛門を名乗り、名義人は幼い善右衛門とすることが慣例だった)は、鴻池善右衛門家として兄弟から分離独立し、延宝2年(1674)に北浜今橋2丁目を金融業の本拠地とした。この時、十人両替の一人にもなり、大名貸を積極的に行った。

鴻池新田の範囲

(出典:史跡鴻池新田会所跡保存活用計画)

 三代目善右衛門宗利は、これまでの酒造業の廃業と海運業の縮小を行い、両替業と不動産取得の二事業を推進していった。事業で得た資産の使い道として、鴻池新田の開発が選ばれ、鴻池家の地位は後まで安定したものとなった。「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」、「神様でもったいないのは伊勢の大神宮、仏さんでありがたいのは京都の本願寺、長者で名高いのは大坂の鴻池」といわれるほど、豪商鴻池家の名は不動の地位を占めていた。
 その後、最大の融資先であった岡山藩など各藩からの利払いと返済の繰越の通告や、淀川の大洪水などにより、鴻池家は度々重大な危機に見舞われたが、質素倹約や新田の収益力の向上を進めることで乗り越えてきた。天保4年(1833)から4年間にわたって全国的な大飢饉に見舞われた際は、両替商の仲間 とともに町奉行所を通じて救済活動を行った。その後も難民救済が許されていた。
 明治時代、廃藩置県が行われると、莫大な藩債をもっていた鴻池家は興廃の危機に立たされた。その後、金融業の近代化として国立銀行条令がしかれると、明治9年(1876) に鴻池家は第十三国立銀行を設立した。明治30年(1897)には鴻池銀行に改め、明治 33年(1900)には合名会社鴻池銀行となった。昭和6年(1931)、鴻池·三十四·山口の三行が合併し、三和銀行(現在、その後の合併により三菱UFJ銀行)となった。
 鴻池家の当主は代々茶の湯を愛し、四代宗貞や五代宗益は表千家七代如心斎に師事し、茶人としても名を成したほどであった。鴻池家は茶道具や扇面などの美術工芸品の蒐集でも名高かったが、収集された茶道具等の多くは、昭和15年(1940) に大阪美術倶楽部および東京美術倶楽部において、鴻池家旧蔵あるいは松筠亭蔵品として売り立てられた。

地域の交流の場として鴻池新田会所

 庶民にとって、鴻池新田会所は小作料を納める場だけではなく、交流の場としても機能していた。
 会所敷地内にある朝日社は、鴻池新田が開発された当初に鴻池新田の氏神として天照大神を勧請したのが始まりで、江戸時代後期頃には新田開発者である三代目鴻池善右衛門宗利も祀られた。明治元年 (1868) まで宮座制によって管理されていた。4月16日は鴻池新田開発の日として記念祭が行われた。
 明治時代の大阪には河内地域を中心として相撲集団が約80も組織されるなど、幕末から戦後まで村相撲が盛んであった。鴻池においても、三笠山を頭取とする相撲集団がおり、鴻池·寺嶋を勢力範囲としていた。鴻池墓地及び寺嶋墓地には相撲頭取の墓碑があり、最も古いものは嘉永5年(1852)に建立されている。朝日社境内の絵馬堂には、明治40年(1907)、大正6年(1917)、大正10年(1921)、昭和3年(1928)、年代不詳の相撲番付が奉納されている。いずれも三笠山襲名時に鴻池で行われた興行で、三笠山が村の氏神である朝日社境内に奉納したものだと考えられている。なお、昭和24か25年(1949か1950)頃に、三和銀行(現、三菱UFJ銀行)鴻池支店北側の田圃で、第16代三笠山弥三郎の襲名披露相撲興行が鴻池で行われた最後の興行である。
 鴻池墓地には、相撲頭取の墓だけでなく、江戸時代から終戦直後にかけての浄瑠璃役者の墓もある。また、絵馬堂には浄瑠璃番付もあり、村相撲と同様に村人の中に浄瑠璃役者がいたことを示している。
 村人ではないが、終戦後まで伊勢大神楽の山本源太夫組が、毎年秋に鴻池新田会所跡において、村人の前で舞や曲を披露していた。
 鴻池家は鴻池新田において教育行政でも大きな功績を果たした。明治29年(1896)、江北尋常小学校(南鴻池町1丁目所在 現、東大阪市立成和小学校)敷地を当時の中河内郡北江村に寄贈し、昭和25年(1950) には同校運動場として1650坪の土地を更に寄贈された。
 また、西鴻池町2丁目所在の大阪府立城東工科高等学校(昭和4年(1929)4月開校時の校名は大阪府立城東職工学校)の校地は、鴻池家から大阪府に寄付されていた1万10坪があてられている。同校開校当初は校舎建設途上で、会所が第1回入学式の式場、更に昭和4年11月まで仮校舎として使用されていた。

鴻池新田の戦後と東大阪市の発展

 戦後、昭和22年(1947)の農地改革によって、鴻池新田の大部分は小作人に払い下げられ、その後昭和25年(1950)に鴻池新田会所はその役目を終えた。また、昭和22年には大阪今橋の鴻池本邸を大阪美術倶楽部に売却し、これ以後各地の所有家屋敷を次々と処分していった。昭和27年(1952)には当主一家が嵯峨より鴻池新田に移転し、会所内建物で居住している。保存修理工事前の会所内建物にはこの時の住居として住みやすくした改造の跡がかなり残されていた。
 昭和51年(1976)には、旧役宅跡を除く会所敷地が国の史跡に指定され、その後東大阪市が会所敷地を買収し、鴻池家より史跡指定地の建物の寄付を受けた。昭和55年(1980)には、本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と棟札6枚が国の重要文化財に指定された。昭和60年(1985)に保存修理工事に着手し、平成7年(1995)に竣工、平成9年に文化財施設としての一般公開を始めた。
 

鴻池新田地割図(明治期)

鴻池新田会所跡周辺の航空写真1(出典:国土地理院空中写真(1936-1942 年撮影)

鴻池新田会所跡周辺の航空写真2(出典:国土地理院空中写真(1936-1942 年撮影)

鴻池新田関係年表

出典:史跡・重要文化財鴻池新田会所パンフレット(前指定管理者作成)

1655明暦元年徳庵から今福までの徳庵井路 (現、寝屋川) が開削される
1660万治3年幕府による初の大和川の付替え検分実施
16614年新開池内に六郷井路を開削
1665寛文5年幕府による2回目の大和川の付替え検分実施
167111年幕府による3回目の大和川の付替え検分実施
1674延宝2年大雨洪水で玉櫛川入口の法善寺前二重提決壊、玉櫛川筋で35か所の堤が切れる
大和川の付替え運動は摂河両国15万石余の規模に拡大
16764年幕府による4回目の大和川の付替え検分実施
1683天和3年幕府による5回目の大和川の付替え検分実施
伊奈半十郎・河村瑞賢ら治水土木の専門家も同行
1684貞享元年河村瑞賢の改修工事始まる (安治川の開削など)
16863年瑞賢による大和川・石川の合流付近の船橋村・柏原村の堤外島 (河川敷の耕作地) の削除
16874年瑞賢の治水工事完了
摂津河内15万石余の村々が付替え実施を訴える (最終嘆願)
1698元禄11年河村瑞賢の2期工事開始
(堀江川の開削、大和川筋でも久宝寺川の植松の突出部削除、小坂の用水樋伏替え、高井田の外島の削除など)
169912年河村瑞賢の2期工事終了、6月に瑞賢歿
170316年堤奉行万年長十郎らの新川筋検分(中甚兵衛同行)のあと、幕府による最後の大和川の付替え検分実施
その後幕府は大和川付替えを正式に決定
1704宝永元年大和川付替え工事竣工、京橋の土木請負人大和屋六兵衛と中垣内村の庄屋長兵衛が新開池の開発権利取得
17052年三代目鴻池善右衛門宗利・善次郎が開発権利を買収、 新田開発に着手、 新田内東村 16軒・西村14 軒普請完成
17074年新田造成竣工 ( 「新開新田」 )、 会所完成、宝永の大地震で会所・百姓家屋・堤防に被害を受ける
17085年徳庵井路の南側に新しい井路 (下六郷井路)を開削、新開新田検地 (反別 120 町1畝 16 歩、石高 870 石 5 斗3升8合)、 「新開新田」改め「鴻池新田」
17096年鴻池新田入作 23 ヶ村 450 人
17107年中新田前島買収 (反別 13町3反6畝 2歩)
1711正徳元年大風で百姓家屋多数損壊
17122年隣村5ヶ所の庄屋が幕府に鴻池新田の再検地を訴える
1719享保4年再検地(反別157町8反8畝22歩、石高1706石8斗8升)
17216年検地絵図に会所本屋・米蔵・文書蔵・表長屋門・支配人役宅2棟が記される
17249年寝屋川筋20ヶ村用水組合に加入(のち22ヶ村)
172510年徳庵井路の堤防が破損、橋本新田(8反2畝2歩)と三嶋新田(33町8反8畝3歩)の一部を買収
173116年中新田西寺嶋買収(9町6反3畝8歩)、このころ鴻池新田抱百姓は東村23軒・西村15軒・三嶋2軒・寺嶋8軒
173520年茨田郡三矢村で淀川の堤防が決壊、 摂津・河内で稲5万石に損害
1740元文5年会所道具蔵新築
1746延享3年会所屋敷蔵新築
1756宝暦6年鴻池新田家数 42 軒 306 人
17599年会所本屋の座敷増築
1777安永6年中新田東寺島買収 (4町5反1畝)
1786天明6年会所文書蔵新築
1789寛政元年「百姓之風儀改幷倹約申合之事」を定める
17924年鴻池新田3ヶ村の百姓10人が年貢免除を求めて本邸に直訴、厳罰に処せられる. 直訴禁止等の定書制定
17968年「百姓方定書」を定める
1802享和2年会所米蔵建て替え、 点野および仁和寺で淀川の堤防が決壊、 河内国 149 ヶ村で浸水
18033年洪水方入用で鴻池新田が 54 貫 338 匁を負担
1807文化4年大庭八番村で淀川の堤防が決壊、 鴻池新田も被害受ける
18085年洪水方入用で鴻池新田が 38 貫 597 匁を負担
18129年鴻池新田村の抱百姓 44 軒、 別家鴻池屋の草間伊助直方が 『鴻池新田開発事略』を著す
1833天保4年会所本屋修理
184415年会所道具蔵建て替え
1849嘉永2年会所支配人役宅建て替え
18536年大風で会所本屋が大破、 11月畿内大地震で鴻池新田普請入用 27貫 30 匁を地方諸払いへ、
11月畿内大地震会所建物が再び大破・修理
1866慶応2年鴻池新田幕府御用金 175 両
1875明治8年鴻池新田・三嶋新田・中新田地租改正
188114年火の見小屋新築
188417年「新田規定」 を定める
188518年淀川決壊し、摂津・河内大洪水、 鴻池新田の住民は日下村 (生駒山西麓)に避難、墾田紀功碑建立
188720年三嶋 142 に江北尋常小学校(現、成和小学校) 設立
188922年鴻池新田・新庄村・三嶋新田が北江村となる、 淀川および大和川堤防決壊
189326年天王寺屋五兵衛を会所にかくまう
189528年浪速鉄道(現、JR学研都市線) 片町~四條畷間開通
189629年第十三国立銀行が鴻池新田会所内に出張員詰所を置く、 江北尋常小学校が現在地に移転(敷地は鴻池家の寄贈)、 北江尋常小学校に校名変更
189730年第十三国立銀行の営業を引き継いだ鴻池銀行が会所内に同行出張所を置く
190134年鴻池新田の小作制度改革
190235年小作争議起こる
190336年小作争議起こる、 鴻池新十郎家が深野新田を売却、鴻池新田も売却の検討を始める
190639年鴻池新田の売却方針撤回
191043年鴻池新田の称を廃止し、 大字鴻池とする
191144 年小作争議起こる
191245年鴻池家により鴻池新田に停留所を設置
1912大正元年小作争議起こる
19132年鴻池新田停留所を拡張し、 停車場へ格上げ、 鉄道院へ寄付
19176年大隈重信(前年まで内閣総理大臣)、 鴻池新田へ来訪
192312年小作争議起こる
192514年鴻池銀行鴻池新田出張所、鴻池新田駅前に移転、支店に昇格
192615年鴻池新田耕地整理実施
1935昭和10年産土社現在地に移転
193611年西村住宅(西鴻池1丁目付近)開発開始
194722年農地改革の実施、 鴻池新田の大部分を小作人に払い下げ
195025年会所はこの年まで機能
195227年肝煎役解散、 12代善右衛門幸昌、 会所で居住する
196944年国鉄片町線の高架化により会所北側の周濠が埋められる
197247年大東水害、 鴻池新田も水に浸かる
197651年役宅部を除く会所敷地が文化財保護法により国の史跡に指定される
197752年鴻池家より東大阪市が史跡指定地内の建物の指定寄付を受ける、 会所敷地6 524.73 平米を東大阪市が買収
197853年会所敷地 1,655.3平米を東大阪市が買収
198055年本屋・屋敷蔵・文書蔵・米蔵 ・ 道具蔵および棟札6枚が国の重要文化財に指定される
198560年解体修理工事着手
1995平成7年解体修理工事竣工
200517年朝日社解体修理竣工 (鴻池家による)

こちらに掲載されている文章および図は、「史跡鴻池新田会所跡保存活用計画」(令和5年3月発行)第2章の第2節 歴史的環境(P.11~P.20)をもとに、加筆・修正したものです。